会社と人との関係を比較すると、以下のように喩えるのがいいかもしれない。
日本の場合は、やはり土着の農耕民族に喩えられる。
重要なものは、土地とそこに住む人である。なので、村での人の出入りがあまり無いほうが好ましい。
村には、必ず重鎮がいる。重鎮の言うことは絶対である。
昔豊作だった時代のことをいつまでも忘れていないので、その経験を元に判断する。
若い世代は、それではうまく農作物が育たないことが分かっているのだが、なかなかそれをうまく伝えられない。
とりあえず、足しげく田畑に通って、収穫率の低い農作物を丁寧に育てるしかない。
儲からないのは分かっているが、将来にわたって安定した収入が得られることがもっとも安心できる。この安心感が最重要である。
だから米を作っていた人が、減反によって、野菜を作ったりというような方向転換を行うこともある。ノウハウもないし、すぐに利益も上がりにくいが、その土地で何とか食べていくためには仕方が無い方向転換である。
一方で、こちらはやはり狩猟民族的だ。
集団で狩をするという意味では、漁業が近いかもしれない。
会社は船であり、社長は船頭だ。
船は大型船もあれば、ボートみたいなものもある。
ある船が、マグロを追っていたと思ったら、業績によって、そのターゲットを鰯に変えてしまうこともしばしばだ。
そのときに、マグロ漁の専門家は存在価値を失う。鰯漁のために、一から勉強しなおすということより、他のマグロ漁船に乗り換えるほうが多い。
その人が有能、無能というより、鰯漁にマグロ漁の専門家は要らないからという判断で船を下りてもらう。
不要だといわれたほうも、別のマグロ漁船に乗り込むだけの話だ。
なので、個人にとって重要なのは何の専門家なのか、ということである。それがあれば船を乗り換えることにそれほど違和感はない。
こちらに来て思うようになったのは、人間関係とかでねちねちしながら、田畑にこだわるより、自分の武器と弱点を知って、船を乗り換えるほうが、個人にとっては幸せなんじゃないかということだ。
自分のプロフェッショナルとは何ぞやというところを明確に出来て、わかりやすい。頑張りがいがある。
休みたいなら辞めろという話をどっかのおっさんがしていたらしいが、その理由が、休んでのんびりやっていたら会社が潰れるとか成長しないという話だ。その感覚はまったくこちらには存在しない。
そこまでやらないと続かない田畑なら潰せば?という発想なのだろう。個人個人が、その田畑と心中しないといけないところまで取り込まれて、幻の安定をちらつかせられて働かせる。それを好とする人はあまりいなさそうだ。
勿論、どちらのやり方が正しいかとはいえない。ただ、そこで働く一人一人がどれくらい充実感とか幸せを感じている(あるいは考える必要もない)かの総量の比較はしてみたい。能天気なカナダ人を見ているとそう思う。
とはいえ、もし自分が村の重鎮だったら、彼らと同じこというだろう。それが自分の生きる術なのだ。
彼らは彼ら自身のための最善の方法を選んでいるに過ぎないのだから。
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