![]() | 運のつき (新潮文庫) 新潮社 2007-03 |
養老孟司の「運のつき」を読んだ。
中国人なら人を表すのに「人」という漢字ひとつで十分です。日本に入ると、それが「人間」になっちゃうんですからね。
「人と人の間」、「人間」というのは中国語では世間のことです。(中略)
それが日本の常識です。ヒトと世間が同じ言葉になっているって「ものすごいこと」だと思いませんか。
そういうなかで考えたことが、「人間」になるか、「人」になるか、です。日本にいるかぎり人間であって、人ではない。
ドイツ人学生がいいます。「日本人は生きられませんからね」。中国人である著者は、それに賛同する。これが中国人とドイツ人の結論です。
むずかしいでしょ。生きるって。こんな簡単なことは、ほかにはないからです。動物ははじめから「生きて」ます。それを籠に入れて、まったく動けないようにして、餌と水が目の前を流れるようにしてやる。それがブロイラーです。だれかの生活がそれに近づいたとき、見ている人から「生きていない」って表現がでるんでしょうね。餌も水も十分、病気にもならず、長生き。でもなんか変。「生きていない」ように見える。
日本以外の国に行くと思わされることがある。
日本製のジェットスキーで楽しむオーストラリア人。日本製のヨットで楽しそうなニュージーランド人。日本製の車を広々とした道で乗り回すカナダ人。日本製のカメラを使うドイツ人。日本製のテレビを広い部屋で楽しむアメリカ人。
なんだか、楽しそうである。で、当の日本人は自分たちの造ったもので、どれくらい楽しめているのだろうか。日本の街行く人々の顔はいつも険しい。
養老孟司のいうブロイラーの鶏が、工業製品という形の卵を産むために存在しているかのようだ。卵を食べるのは外の人たち。
一方で、ブロイラーにとっては籠の外にでると「生きられない」のではないかという恐怖感が付きまとう。だが、本当に「生きられない」のだろうか。
かく言う自分も、そんな状態がいやでそこを飛び出したのではあるが、未だにその恐怖感は拭えないし、「人」には成りきれてはいないのであった。
難しいですなあ、日本人て。
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本質的な意味からかけ離れた協調性や、コミニケーション能力ってやつは嫌いです。全体主義では能力を発揮出来ずに、海外に流れていく方も少なくないのでは、とも感じます。そしてそういう人に限って優秀だったりします。個人的な見解ですが。
生きる=人だと思いました。りもじろうさんのブログは色々考えさせられますし、勇気づけられていたりもします。海外で働いてらしゃって、客観的に日本の事を見ておられるからでしょうね。
「造る」こと自体が楽しいことなのではないでしょうか?
しかもそれを世界中の人が使ってくれるなんて、この上ない喜びだと思うのですが。
一方、そんな贅沢なモノがなくたって他にも十分楽しみ方はありますよね。
貧しい国々の人達の澄んだ目を見て思いました。
贅沢=楽しさというよりも、与えられた枠内で、黙々と生産し続ける人生をどう捉えるか、でしょうか。
家族、個人を犠牲にして、残業に明け暮れている生き方に疑問を感じないのかというような。
それは僕も常々感じます。関係性がない人に対して、一般的な日本人は険しい顔をしている気がします。
(1) 日本企業ブランドデジカメは日本製かどうかはわからない。東南アジアのどこかの国での製造かも。
(2) 「撮ってほしい」と(高価な〕デジカメを見ず知らずの人に差し出せるだけの治安の信頼が日本にはある。
険しい顔をせずに日本国内を見てほしいものです。
「こそが」生きている?
「も」生きている?
「が」生きている?
創ることを愛していない人にメーカーは務まりません。
ですが、そんな人達が、ただ生産の道具として一生を終える。彼らには人権や人並みの幸せなどはない。結婚もできず、子供も育てられず、彼らの思いは次の世代には受け継がれない。物作りが「一世代限りの突然変異」になってしまった日本の次の世代は、一体どうなると思います?
「女なんて子供を産む道具だ」という言葉は批判をうけると思うけど、「労働者なんて生産の道具だ」という発言が当たり前の事実として受け入れられるのは、異常だと思いませんか?
父は自営業だったので少々遅いとはいえ夕食の時間には帰ってきていましたし、学校の行事にも仕事を調整してよく顔を出してくれました。同じことを自分の子供にしてやれないのが本当に苦痛でした。
町内会のおじさんおばさん達はみんな私達兄弟のことをよく知っていて、放課後は年の違う子供たちが公園や空き地で日が暮れるまで一緒に遊んでいました。
今の余裕のない日本が、必ずしも本来の日本の姿ではないと思います。