景気が右肩上がりの時代ならよかったのかもしれないが、この時代、会社に忠誠を誓っても裏切られることも多い。
景気が悪くなると、個人個人のパフォーマンスなどほとんど見ることなく、組織ごとざっくり解体、切り離し、身売りがおこる。隣の部は年末に解体された。各々独力で仕事を見つけるか、子会社に出向となる。そんな時代でも、私の周りの人々は同じ行動パターンを繰り返している。
不思議だ。
私はアメリカ人エンジニア的な生き方のほうが、個々人としては幸せなのではないかという結論に達した。
しかし、会社の言いなりにならずに、好き勝手生きるということではない。当然そんな都合よくはいかない。結果がすべてである。
アメリカでの生活では、非常に屈辱的な思いをしたが、基本には
「こいつらに絶対負けるか」
という思いがあった。
そのため昼夜問わず、猛烈に勉強し、働き、結果を出すことに集中した。そして見返してやろうと思った。若き日の藤原正彦氏のように、英語・技術力のコンプレックスにも悩まされ続けたが、チャレンジし続けた。
がんばった甲斐あってか、結構いい感じで結果も出て、自分のポジションもしっかりしてきたのが赴任して2年もたったころだ。
ドラマ的に、この猛烈な努力によって心が打ち解け、最後は高い評価を得て、すばらしいチームメンバーとなる、はずだった。
日本の出向元組織が解体という話になった。日本の別の組織がアメリカの部隊を管轄するという。
「まあ、そっちに移るのも悪くないわな。」
などとのんきに思っていた。
そして、部長に呼ばれる。
「おまえ、日本に帰ってくれるか。」
「え?な、なんでですか?組織メンバー増強っていう話になるって聞きましたが?」
「うん。赴任者って金かかるねん。赴任者一人で若いの二人雇えるやろ?」
(大阪弁はイメージです)
結局、私よりも若いの二人のほうがええ、っちゅうことですね。じゃあ、お前辞めたら三人雇えるやろ!
まあ、結論としては、日本でのぬるま湯生活が長かったおかげで、早々簡単に技術レベルを上げられるもんでもないということだ。結果を評価されなかったのだ。
そして、負けん気が強くなっていたため、カジュアルトークする間も惜しんでいたのが、コミュニケーション能力に問題ありと思われた感も否めない。
これ、アメリカのエンジニアなら即首という意味である。
ビバ日本人!
というわけで、帰国を強いられた(首を言い渡された)。自分が面接し採用した人々から。
これを自宅に帰って妻に告げると、大変ショックのようだった。私が夜中に悔しくて目が覚めると、妻が泣いているのが聞こえてきた。
アメリカでの生活は非常に快適だった。子供も保育園に友達もたくさんできていた。とても順調な生活が、一瞬にして終わりを告げる。会社のせいで。私のせいで。
すまん。
このとき、心に誓った。絶対に自分の力で生きたいように、生きてやる、と。
だが、その前に職探しだ。元部署は解体されているので、戻るところが無い!
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