このNZの会社ではリストラでクビになっても即刻辞職というわけではなく、人によって1週間から1ヶ月ほどの引継ぎ期間を設けていた。クビになった人にはなんとも切ない期間である。
しかし案外みんな冷静に引継ぎをこなしているのが印象的であった。
これで私としては、アメリカ、カナダ、NZの会社での大規模リストラを経験したことになる。
さて、日本ではリストラなどの失職などによる自殺が増加しているといわれて久しい。
ひとつの理由として組織からの脱落感を指摘しているブログもある。
これら自殺の共通点は「組織や社会からの脱落感」ではないか。そして彼らは組織や社会や学校という狭い世界が自分の存在意義のすべてだと勘違いしている。彼らは「組織」という機械から外れ落ちた「1本のネジ」と同じだ。この点は自分でも驚いたことに、自分がカナダのベンチャー企業に転職したときに強く感じたことでもある。
カナダの会社は自分の存在意義を求めるような拠り所ではなく、誰もそんなことを期待していないことに戸惑いを感じたのだ。自分から日本の会社を辞めておきながら、なんともいえない寂しさを覚えたのだ。
だから組織からクビになった場合、自分の存在を見失ってしまって自殺する、という流れは日本社会にどっぷり漬かっていれば想像に難くない。
私が経験した各国のリストラでも、泣いている人や、怒っている人もいたが、大抵すぐに別の会社が決まるので、その後また顔を出しに来たり、営業しにくる人もいて、自殺するメンタリティとは程遠い。
総じて見ていると、日本人の私が経験したことのある精神的ストレスレベルとして近いものは、年に一度の学校のクラス替えの感覚だ。
仲のいい仲間と一緒にいたいと思っていても、そうはいかない少しどきどきする行事である。一方で新しい出会いが新しい発見をもたらすこともある。
エンジニアは同じような業界で働くので、小さな街では前の会社で一緒だった人とまた働くなんてこともしょっちゅうである。仲のよかった、あるいは悪かった友達とまた同じクラスになるような。
学校生活も何年もやっていると気の合うクラス、なじめないクラス、色々あるものである。会社のメンバーのそれも似ている。
ある日本のお偉いさんと呑んでいるときに、こんな話をしたところ、
「そんなんだと会社のために一生懸命働くという感覚がなくなってしまうのではないか。」
と聞かれたのだが、これはむしろ逆だと思う。
クラスは毎年変わるが、だからといって体育祭や文化祭、修学旅行などクラス行事を一生懸命やらない理由にはならない。やらない人もいてもいいと思うが、クラス替えがあるからやらない、という人は少ないだろう。
むしろ限られた期間だと分かっているから、この1年で精一杯やって結果を出そうと思うことが普通なのではないだろうか。
一方で当然ながら、毎年変わるクラスに自分の存在意義を求めたり、しがみ付く人はいない。
そんな感覚で会社が回っているのである。
今となっては、こちらのほうが健全に思えてならない。
クラス替えの後に次のクラスが普通に待っているような社会が。
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